ろこのかたこと

たまに役者をやる会社員の日常

よもやまビール~ミステリーとグルメと4つのビールタップ

 昨今のクラフトビールブームは、街を見渡せば一目瞭然だろう。取り扱う飲食店が続々と増え、ビアフェスは季節を問わず盛り上がり、スーパーやコンビニに陳列されるビールの種類も多種多様だ。

 私もかれこれ半年ほど前から本格的に沼にはまっている。この春に職場を異動になって、同僚たちの前で挨拶をした時も「クラフトビールにはまっています」と自己紹介をしたほどだ。

 単に晩酌のお供にとどまらず、ビールを求めて出かけるような今の楽しみ方に至るきっかけは何だったか――思い返してみると、とある小説が脳裏に浮かぶ。

 北森鴻の「香菜里屋シリーズ」、連作短編ミステリーである。

 

 元は2001年発表の作品だが、文庫の新装版として2021年に刊行しており、toi8さんの装画で目に留まった。ミステリー大好き、グルメ漫画やグルメ小説も大好きなので、これはと思い、一作目の『花の下にて春死なむ』を手に取った。

 話の舞台は主に三軒茶屋にある香菜里屋というビアバーである。その店主・工藤が、客たちの話をカウンター越しに聞きながら、様々な謎を紐解いていく。工藤が積極的に事件に対して何かを働きかけることはほとんどなく、いわばアームチェア・ディティクティブとしての役割を担う。

 ミステリーとしての面白さはもちろん素晴らしいのでぜひとも実際に読んでいただくとして、この作品はビールと料理の描写が突出して上手い、否、旨いのだ。

 

手羽のつけ焼きとはずいぶんとシンプルな。あくまでもこの店にしては、と思ったが、飴色の肉にかぶりついたとたん、仲河の舌は幸福な裏切りに遇った。ふんだんに赤ワインが使われているらしい。幾種類かの香辛料の味と渋み、それに淡い甘みが肉そのものにしみている。味付けもさることながら、どうやら調理方法に秘密があるようだ。

「こいつは……アルコールがすすんでしょうがないね」

「お口に合いましたか」

我ながら品が良くないとは思ったが、それこそ骨までしゃぶり尽くすようにきれいに食べ終え、度数のやや高めのビールで口内を洗い流すと、あとはただひたすらに幸福な印象のみが残った。』(北森鴻『蛍坂』より)

 

 流れるような言葉たちから、まるで肉汁が滴り落ち、香りがとろりと漂ってくるかのようだ。料理に寄り添うビールの役割もまた、これ以上ないほど的確に表現されている。きっと手羽に似た濃い色で、スパイスとモルトの旨味が重なり合いながら喉を流れていくのだろう。ビールそのものの具体的な描写は小説にはほぼないが、私だったらこの手羽のつけ焼きにはアンバーラガーを合わせたい。琥珀色でしっかりと苦みがありつつ、のど越しが良いものが欲しい。

 もしくは、先日飲んだ秋田の醸造所・ブリュッコリーのフラックスというビールが合いそうだ。スモークアンバーエールというスタイルで、スパイスカレーと抜群に相性が良かった。きっと手羽の濃い味やスパイスの香りとも絡み合いながら、意外と軽やかな後味で脂をすっきりとさせてくれるだろう。

 旨い店には人が集まり、ほどよいアルコールには人の心も解け、カウンターに立つマスターの穏やかな佇まいに、常連と一見の会話すら自然に生まれる。こんな店が実際にあったなら、と読むたびに憧れてしまう。

 

 さてこの香菜里屋には常時、度数の異なる4種類のビールが置かれているという設定になっている。一番度数の高いものは12度ほどで、ロックで提供される。これは私にとって衝撃だった。

 ビールってそんなに種類があるものなんだ。ロックで飲むタイプなんてあるんだ。

それまでも私にとって酒といえばビールだった。大学時代、真夏の炎天下で芝居の大道具作りに励み、作業後の飲み会でグイっと飲み干したスーパードライがガツンとうまかった。以来、酒の場では基本的に最初から最後まで「生中」で通してしまうようになった。あの苦みや、後味の切れ、喉から全身に染みわたっていく感覚が何度飲んでもたまらない。

 つまりビールといえばスーパードライで、せいぜいキリンやサッポロくらいの違いしか知らずに(目に入らずに)いた私にとっては、香菜里屋の4つのビールタップがそれこそ次元の違う文化のように思えた。

 しかも提供するビールによってグラスを変える。料理を工夫する。そんなに繊細なバリエーションのある楽しみ方ができるものだとは。

 

 スーパードライ以外のビールに全く触れてこなかったのかといえばそうでもない。黒ビールや白ビールの存在は知っていたし、キリンシティではハーフ&ハーフがお気に入りだった。

 ただ、肝心の「飲み手」である私に、知識と覚悟がなかった。覚悟というのは、無限に広がるビールの味わいとペアリングに向き合う心構えのことである。香菜里屋シリーズに描かれていたのは、あまりにも広く深いビールの世界への入り口であり、楽しみ方の素晴らしいお手本だった。

 なにも知らなくたって、ビールはおいしい。だが「飲み手」が楽しみ方を覚えて能動的になると、抜群に、圧倒的に面白くなってしまうのだ。

 なるほど、ビールにいろんな種類があって、料理との合わせ方も考えるといいらしい。「香菜里屋シリーズ」を読むにつれ、だんだんとスーパーやコンビニのビールコーナーで変わり種が気になり始めた。

 いわれてみれば「よなよなエール」や「水曜日のネコ」は多分クラフトビールで、学生時代にサークル仲間が好きで飲んでいた気がするけど、スーパードライとは全然違う味だ。そもそも「エール」と「ビール」って何が違うんだ?こういうのがもしかしてめちゃくちゃあるのか……?

 

 こうして私の舌先に芽生えた興味を、ぐっとリアルに結び付けてくれた作品がもう一つある。次の記事で紹介したいと思う。

 これ以上長く書いていると、ビールの飲み頃を逃してしまいそうだ。